真言宗/東陽寺

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釈迦
東陽寺仏教の歴史
仏教の開祖。釈迦牟尼(しゃかむに)、釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)、釈尊(しゃくそん)とも呼ばれる。
生没年にはさまざまな説があるが、前565~前 486年説、前 465~前 386年説などが有力とされている。
釈迦は梵語(サンスクリット語)のシャーキヤ【S】akyaを音写したもの。もともと北インドの一部族の名だったが、その部族出身の仏陀という意味で広く使用されている。釈迦牟尼世尊の牟尼は聖者の意で、釈迦族出身の聖者を意味する。俗姓をゴータマ、名をシッダルタといい、現在のネパール南部のターライ盆地にあったカピラバスツー城で、シュッドーダナ(浄飯)王を父、マヤ(摩耶)夫人を母として生まれた。国王になるための教育を文武両面で受け、16歳でヤショダラ(耶修陀羅)女と結婚、1子ラーフラをもうけたが、29歳(19歳説も)で出家した。
出家の動機について仏伝には「四門遊観」があげられている。
釈迦が王宮にいたとき、城から遊びに出ようとした。東の門から出たときには老人、南門では病人、西門では死者を見た。ところが、北門から出たときに出家者が歩いているのを見、心を強く動かされ、出家を決意したといわれる。
「生老病死」といった人間の本源的な苦悩の解決が出家の目的だったのである。出家した後、6年間(19歳説では11年間)にわたって苦行を続けたが、肉体を苦しめるだけの苦行では目的が達成できないことを知り、菩提樹の下で思索、瞑想にふけり、35歳で成道(じょうどう)した。悟りを得た釈迦はサールナート(鹿野苑=ろくやおん)に行き、かつての同僚であった5人の修行者を相手にはじめて説法をした。
これは「初転法輪」と呼ばれ、「中道」と「四諦」が説かれたといわれている。
その後も釈迦は一カ所に止まることなく、主としてガンジス河の中流域で、民衆の機根に応じてさまざまな教えを縦横に説いた。ラージャガハ(王舎城)ではビンビサーラ(頻婆沙羅)王をはじめ宮廷の人々を教化し、故郷でも父王や親族に自らの悟りを伝え、導いた。従弟のアーナンダ(阿難陀)や一子ラーフラも帰依している。西に東に、北に南に。教えを説く旅を死の寸前まで続けた釈迦は、80歳でクシナガラで入滅した。
教えの中心は、初期の仏教教典によれば、四諦(したい)、八正道(はっしょうどう)、十二因縁(じゅうにいんねん)、縁起(えんぎ)などであったとされる。因果の理法を明確に知るとで、物質や自我に対する執着によって生じる苦悩から自由になることができると説いた。釈迦の教えは譬喩(ひゆ)や例え話が多く、わかりやすかった。
実践の方法も極端な苦行などを避け、倫理面を重視した方法を採用したので、さまざまな階層の人々に受け入れられた。その教説は生前は筆記されなかったが、亡くなった後、数度にわたる「結集(けつじゅう)」が行われ、多数の仏教経典にまとめられた。
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